楽笑会 つれづれのページ

このページでは、日頃感じたことや気づいたことなどを
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つれづれ 2021~22年

野田先生の思い出ヒペリカムコロナワクチン卵焼き叔母のこと桜、桜、桜…

こんにちは、EOLECT!近畿地方会~ワーク「ふたりの物語」







2022年9月
近畿地方会~ワーク「ふたりの物語」

9月4日(日)四日市市にある「じばさん三重」で、日本アドラー心理学会の近畿地方会が行われました。もう27回目ですって(すご~!)。

今年の近畿地方会は、ちょっとしたチャレンジをしました。ひとつは「パートナーとの関係を取り上げよう」、もうひとつは「子ども時代の経験をふまえて考え直そう」です。今までは子育てをテーマにすることが多かった、アドラー心理学のライフスタイル論のことまで取り上げたことがなかった、ということから、何か違うことがやりたいね、と決まったテーマでした。

アメリカのアドレリアン・ファミリー・セラピストであるベティ・ルー・ベットナー(Betty Lou Bettner)氏が書いた『シンデレラ その後の物語』(CINDERELLA THE SEQUEL:Amy Lew 氏との共著)という本を参考にして、午前中は寸劇の公演&出演者による座談会、午後はパートナーとの関係を考え直すワーク「ふたりの物語」をしました。

当日、寸劇チームがとても素敵な劇を見せてくれました。松田郁子さんが書いた脚本の力が大きかったですが、それに加えて、演者の皆さんの迫力満点の演技!!特にチャーミング王子に魅せられた方が多かったのでは、と私は思います。

シンデレラのお話は「王子さまと結婚したシンデレラは、いつまでも幸せに暮らしました、めでたし、めでたし!」で終わるのですが、私たちの現実の生活はそうはいきません。シンデレラたちもきっとそうだよね、という所から話が始まります。

理想の相手と結婚した(と思ってた)のにトラブルになった二人は「もう離婚だ!」と叫ぶのですが、二人が賢かったのは、夫婦カウンセラーのもとに相談に行ったことでした。そうして、二人は、子どもの頃に(自ら決心して)獲得した思い込みがあって行き違っていたことに気づきます。カウンセリングを受けた彼らは、最後には協力し合える関係を作れるようになる・・・というお話です。

劇を見たあとの座談会では、役を頼まれた時の気持ちとか、たくさんのセリフがあって大変だった話とか、劇の練習をしているうちに自分たちの夫婦のことを考え直せたという話など、劇を仕上げていく中での裏話なども語られました。そして、午後からのワークに繋がっていくんだということも実感できるような話がたくさん出されました。

さて、そんな前振り(失礼!)のあと、午後からのワークが始まりました。

私自身は仲間と一緒に午後からのワークを作るチームに入り準備を重ねました。私たちワークチームの願いは、とにかく少しでも勇気をくじかれる人がないように、ということでした。そのために、ワークシートに書き込む質問の言葉を何度も吟味しました。仲間たちが参加している自助会や、寸劇チームの方々にも協力してもらって、「ワークを作る→自助会で試しにやってみる→改定する→またやってみる→改定する→やってみる」を繰り返しました。

今回の地方会はハイブリッド開催でした。つまり、オンライン参加とリアル参加の両方でやろうというのです。これは地方会としては初めての試みで、これもチャレンジのひとつでした。

ワークの司会者はオンライン参加でした。オンライン参加の皆さんとリアル参加の皆さんが同時にうまくワークを進められるように、司会の原稿を細かく作りました。その原稿と、ハイブリッドをするために力を貸してくださったテクニカルチームの方々のお蔭で、スムーズにワークを進めることができたのだと思います。

ワークは、5~6人のグループで行ないました。事例提供者さんにパートナーさんとの「困った話」を語っていただいて、その「物語」にタイトルをつけるところから始まります。その時にどんなことを思っていたのかを聞いた後、事例提供者さんの子どもの頃の話を聞きます。そこから、家族の中でその方が大切にしていることが分かってきます。グループのみんなで、こうかな、ああかな、と話し合います。

次にパートナーさんの子ども時代の話も聞きます。ここは、パートナーさんの言葉や話していたことを事例提供者さんに思い出していただきます。普通、夫婦の問題を扱う時には、夫婦二人でカウンセリングを受けるのが普通なのですが、今回のワークではパートナーさんがいない状態でやろうとしています(これもチャレンジのひとつでした!)。ですから、なるべくパートナーさんの言葉が知りたいのです。その話から推測される、パートナーさんが大切にしていることをみんなで話し合います。

次は、最初の「物語」の中にある事例提供者さんの「善い意図」を探します。子どもの頃の話や大切に思っていることなども参考にします。同じように、パートナーさんの「善い意図」もみんなで探します。

それらが充分に出された後で、最初に語った「ふたりの物語」を新しい物語に変えていきます。事例提供者さんもパートナーさんも善い意図があって、それらの行動をしています。それを物語の中に入れるとどうなるかなと考えながら、新しい物語を作っていきます。そうして、新しい物語にタイトルが付いたら、このワークは終了です。

事例提供者さんは、特に何か努力をしなくても、ご自身の見方が変化することに気づかれることが多かったようです。また、事例を提供しなかったメンバーさん達の中にも、何か解決のヒントがつかめた方がいらっしゃったとも聞きました。

私は、リアル参加していて、あちこちのグループを見に行きながら、ワークの進み具合を確かめたり、質問があれば答えたりしていました。でも、私がほとんど何もしないでも、グループの皆さんの力だけでワークは順調に進みました、しかも皆さんとても楽しそうでした。ワークを作ってきたワークチームにとって、そのことが一番嬉しいことでした。

ワーク「ふたりの物語」は近畿地方会の各準備チーム(寸劇チーム、ワークチーム、テクニカルチーム)だけでなく、半年間の準備段階で何度も試したワークに参加してくださり貴重な意見を下さった自助会のメンバーさん達、そして、ワークが行き詰った時にスーパーバイズしてくださった中島先生などなど、多くの皆さんのお蔭で出来上がったものです。

もし、皆さんの中に、このワーク「ふたりの物語」をうちの自助会でもやりたいなと思われた方は、北風洋子まで是非お知らせください。ワークシートなどお送りすることができます。

半年間一緒に仲間たちと準備に関われたことは、本当に幸せなことでした。大変なこともありましたが、参加してくださった皆さんが喜んで下さったことで、私たちもとても嬉しいと思えました。チャレンジングな地方会、ありがとうございました。









2022年7月
こんにちは、EOLECT!

今年3月に
「パセージ」の商標権が日本アドラー心理学会(以下、学会)から野田俊作顕彰財団へ譲渡されました。それに伴って、学会は新しい子育てプログラムEOLECT(エオレクト:愛称「えくと」)を開発しました。(「パセージ」は一般財団法人野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japanの商標です)

振り返ってみると、
パセージが開発されたのは1998年夏のことでした。それまではスマイルというプログラムを使って、私はアドラー心理学を皆さんにお伝えしていました。スマイルも大好きなコースでしたが、パセージもそれに負けない素敵なコースでした。それから24年が経ち、今目の前にEOLECTというもっともっと素敵なコースが登場したのです。

5月~6月にかけて私はEOLECTの試行コースを受講しました。そこでは、相手(子どもや家族)の「なかま」と「できる」を見つけようと勧められました。
パセージで言うところの「能力」と「仲間」のことかな、と最初は思いました。でも似ているように見えて全く違いました。

パセージでは私の対応の結果、相手(主に子ども)は能力があると思うかな、私のことを仲間と思ってくれるかな、と点検します。

EOLECTでは、まず、相手の中に「なかま」も「できる」も既にあるという前提のもとに、それを見つけていこう、相手に知らせていこう、と勧められます。それを実践していく中で、相手をいっそう愛おしく感じたり、自分自身の中にある「なかま」や「できる」に気づいて自己肯定感が上がっていったりしました。また、言葉で学ぶことに加えて、体験的に理解を深めていくことも大切にされています。

それと、EOLECTは今の時代に合わせた工夫がなされているところも素敵です。テキストは印刷されたものではなくてデータで送られてきます。つまり、いつでもすぐに改訂することができる、ということですね。また、ホームワークもあるのですが、これもメールなどで送受信します。すぐにコメントが返ってくることで、受講者がとても勇気づけられます。

そして、とても嬉しいと思ったのは「EOLECTをみんなで育てていきましょう!」という開発者の言葉です。ファシリテーター達が情報交換をしながら少しずつ良いものに育てていく、そのひと隅に居られることの幸せを、そこに関われることの幸せを、私は今とても感じています。

さようならパセージ、そして、

こんにちは、EOLECT!! どうぞよろしくお願いします。











2022年4月
桜、桜、桜・・・

4月初め、待ちに待った旅行に出かけることができました。去年も一昨年もキャンセルした旅行です。

「日本三大桜」と言われている桜の木があります。三春滝桜(みはるたきざくら:福島県田村郡三春町)、根尾谷の淡墨桜(ねおだにのうすずみざくら:岐阜県本巣市)、山高神代桜(やまたかじんだいざくら:山梨県北杜市)の3つです。また、この3つに石戸蒲桜(いしとかばざくら:埼玉県北本市)と狩宿の下馬桜(かりやどのげばざくら:静岡県富士宮市)を加えて「日本五大桜」とも呼ばれています。

以前、淡墨桜は見に行ったことがあったので、今回は残りの4つを「制覇する!」と言って(笑)、夫が計画を立ててくれました。

←まずは、山梨県の山高神代桜です。桜の種類はエドヒガン。今年は開花が早かったので、旅程を1日早めて出かけました。樹齢は1800年とも2000年とも言われていて、本当に大きくて立派な桜の樹でした。周りには、神代桜の子ども(!)の木がたくさん植えられていて、一斉に咲いたそれらの景色は見事でした。

次に訪れたのは、埼玉県の石戸蒲桜。花の種類はカバザクラです。が、行った時にはすっかり散っていました。背が高くて、神代桜と比べるとほっそりとした木でした。樹齢は800年くらいだそうです。

3つ目には、三春滝桜(福島県)を見に行きました。前日から夜のライトアップが始まったというので、夕食後に車を走らせました。ものすごく広い駐車場が用意してあって滝桜の咲いているところまで10分くらい歩きます。緩いカーブの道を進んでいって見えてきたのは、予想をはるかに超える巨大な桜でした。ライトに浮かぶ姿は本当に美しく、ベニシダレの枝々がまるで滝のように見えます。「それで、滝桜かぁ~」と妙に納得!→ 

←翌日の朝、もう一度見に行きました。写真の左下に人が写っているのが分かるでしょうか。大きさを比べてみてください。樹齢は1000年を超えていると言います。幹回りは9m以上、高さ12mもあり、枝張りは長い方で22mだそうです。

樹の周りに植えてある菜の花も満開で、桜の薄紅色と菜の花のコントラストもきれいでした。

最後に行ったのが、静岡県の狩宿の下馬桜です。種類はヤマザクラ。こちらの花は、半分くらい散っていましたが、ここは富士山をバックに桜が撮れます。神代桜や滝桜ほど大きな木ではありませんが、こちらもなかなか美しい立派な木でした。樹齢は800年を超えるそうです。→

それから、おまけで見に行ったのが、山梨県富士吉田市にある新倉山浅間公園(あらくらやませんげんこうえん)の桜です。ここは、富士山と五重塔と桜が一度に見られる絶景だ!、と海外の人たちから先に人気が上がったスポットです。公園近くの駐車場は閉鎖されていて、離れた駐車場からシャトルバスが出ていました。新倉山というだけあって、バスを降りてからも、どんどんどんどん登っていきます。道の両側はソメイヨシノが満開で、青い空に映ってとてもきれいです。登りきったところに展望台がこしらえてあって、そこからあの有名な写真←が撮れるようになっていました。(人がいっぱいなので、並んで待って、展望台に居られるのは5分ほどでした)

今回の旅は桜を追いかける旅でした。時には追いつかずに散ってしまっていたり、時には追い越してしまい蕾しか見られないこともありましたが、予定していた4つの桜のうち3つまでは間に合いました。桜の他にも、ユキヤナギ、レンギョウ、コブシ、モモ、ミツバツツジ、ハナミズキ、ボタン、シャクナゲなども咲いていました。また、菜の花やスミレ、ツクシ、カタクリまで写真に収めることができました。

最後に・・・、滝桜をお土産に買ってきました。「車に積めるなら、大きい物の方が育てやすいよ」というおじさんの言葉にならって、ちょうど私の背丈くらいの枝をひとつ買いました。夫が庭に植えてくれたのですが、来年花をつけてくれるでしょうか。とても楽しみです。









2022年1月
叔母のこと

私には義理の伯母も含めて何人かの伯母・叔母がありました。中でも、母方の叔母には小さい頃からとても可愛がってもらっていて、とても気の合う大好きな叔母でした。明るくて、歌が大好きで、おしゃべりで、そして、とてもしっかりしていて何でもできる、でも努力も怠らない人でした。

昨年、叔母は米寿を迎えました。春ごろにお祝旅行をする計画を夫が立ててくれました。コロナの影響で2度延期したものの、ようやく10月の初めに1泊の旅行が実現しました。その少し前に体調を崩していた叔母は、出かけるのを少しためらってはいたのですが、叔母と一緒に暮らしている従妹が強く勧めてくれて、元気に出かけることができました。夫と3人、箱根の温泉でゆっくりしました。叔母と背中の流しっこもできました!

叔母の家に迎えに行ってから、ずっとずーっとしゃべり続けた2日間でした。それでも、しゃべり足りないと思うくらい、3人でいろいろな話をしました。叔母が子どもだった頃のこと、結婚してからのこと、仕事のこと、趣味のこと、そして子ども達(私の従弟妹たち)のことなど、たくさん聞きました。また、私のこともたくさん話しました。

旅行もすごく楽しんでくれて喜んでいましたが、帰ってきてから写真をアルバムにして送ったら、すごく嬉しかったぁと、お礼の電話をくれました。楽しかったね、また行きたいね、と話しました。腰が痛いとか目が見にくいとか耳が聞こえにくいとか、体の不調もあるけれど「100歳まで生きる!」と元気に話していました。

ところが、今年初め「年賀状ありがとう!」と電話をくれて話をしたばかりだったのに、1月17日熱を出して入院したと従妹から連絡をもらいました。コロナではなかったのですが、肺炎を起こして集中治療室に入ったというのです。そして、1週間、叔母は逝ってしまいました。

なんとあっけない!と、言葉が出ませんでした。もう一度一緒に温泉に行くんじゃなかったの? 100歳まで生きるんじゃなかったの? もっともっと話をしたかったのに。話を聞いてほしかったのに。・・・

思えば、叔母は時代をうんと先取りした人でした。自分は誰かに頼って生きたかった、と言ってましたが、それよりも自分が引っ張って行く方が向いていたのだろうと思います。また、それだけの能力もある人でした。ですから、ひょっとしたら生きづらいことがあったかもしれません。でも、この時代の人たちの中では、とても幸せに生きた人だったんじゃないかと私は思います。

大好きな叔母ちゃん、どうぞ安らかに眠ってください。 合掌









2021年11月
卵焼き

突然ですが、皆さん、卵焼きは好きですか? 私は卵焼きはもちろんのこと、卵料理は全て大好きです。

卵焼きと言えば、卵を割って溶いて焼く、というシンプルな料理です。卵焼き器があれば四角くて形の良い卵焼きができますね。お弁当にも必ず入っています。そんな大好きな卵焼きなのですが・・・。

最近「関西の卵焼き」が変なのです。ここ数年から10年くらいでしょうか。関西で食べる卵焼きが甘いのです。皆さんのところはどうなんでしょう? 卵焼きは甘い物なのでしょうか。

私が子どものころに食べていたのは、塩味(もしくは、出汁の味)の物で、決して甘い物ではありませんでした。もちろん、市販のお弁当に入っている卵焼きも甘くはありませんでした。

ところが、最近は市販のお弁当の卵焼きも甘いのが普通になってきました。そして、甘くない卵焼きはわざわざ「出汁巻き卵」という名前で売っていたりします。そうかぁ、卵焼きは甘いんだ、とちょっとがっかりでした。(できたら、やめてほしいなぁ・・・ぶつぶつ)

話は変わりますが、箱根に、とってもお気に入りの旅館があります。20年以上前から、たびたび泊まりに行っています。何が気に入っているかというと、行き届いたサービスはもちろんなのですが、食事がとても美味しいのです。確か京都で修行をされた板前さんがいらっしゃるとか。さすがだわ~!(夫など「もっと近ければ食事だけでもしに行きたい!」と常々申します)

ところが、そんな旅館の朝ご飯に出てくる卵焼きが、数年前から甘い卵焼きに変わりました。関東の卵焼きが甘いと知ってはいましたが、ここの卵焼きは決して甘くはなかったのに、なぜ?

この旅館では、嫌いなものや食べられないものは言っておくと一人ひとり対応してくださいます。それで私も、甘い卵焼きは嫌だと伝えました。先日久しぶりに泊まりに行ったのですが、ちゃんと甘くない卵焼きを出してくれました。ありがたいことです。わがままに対応してくださって感謝です!

そして、そして、先日釜石に旅行した時に入った海鮮居酒屋さんでのことです。メニューに「出汁巻き卵」とあったので頼みました。そうしたら、見事に甘い味がついていました。えぇ~! これは違うやん! と私はがっかりでした。これからは、「出汁巻き卵」でも気をつけなくっちゃね、と思ったことでした。

小さい頃になじんだ味の記憶は、結構強く残るものなのですね。もちろん、子どものころには嫌いだったものが美味しく食べられるようになったり、子どもには分からなかった味が大人になって分かることもあります。ですが、私の卵焼きは、甘くてはいけません。

どなたか、卵焼きが甘くなった理由、というか経緯(いきさつ)をご存知の方はいらっしゃいませんかぁ~(笑)。









2021年7月
コロナワクチン

ワクチンのことについて書こうと思います。

大人になってから私はワクチンを打ったことがありませんでした。インフルエンザのワクチンも、です。だって、ワクチンを打ってもインフルエンザに罹った人の話をよく聞くし、何より、私はワクチンを打ってなくてもインフルエンザに罹ったことがありません(自慢することでもないけどね)。

じゃあ、コロナのワクチンはどうしましょう。親の世代は当然打っておいた方がいいよねと、まず思いました。それで、早めに予約をし(幸いうまく予約できました!)、会場に付き添いました。特に副反応もなく、腕が痛いなぁ、くらいで済みました。

次に私たちの世代にワクチン接種券が届き始めました。この頃には副反応はどんなものか、気をつけることはどんなことか、などの情報もあれこれ伝わってくるようになってきました。

コロナに罹った時のつらさとワクチンの副反応を比べると、圧倒的に副反応の方が軽そうです。また、私のようにあちこちに出かけて行って、沢山の人たちと会うことが多い者にとっては、自分だけでなく私が会う人たちのリスクを減らすためにも、やはり打っておいた方がいい、と思いました。つまりは「みんなにとってどういうことか」ですね。

家の近所の内科クリニックの予約が取れたので、6月初旬1回目の接種に行きました。ちょっとドキドキです。先生が丁寧に問診をしてくださった後、花粉症があるからという理由で、接種後30分はクリニックに居てください、とおっしゃいました。接種そのものは、筋肉注射のわりにほとんど痛みもなく、あっという間に終わりました。その後、本など読みながら時間を過ごしました。気分が悪くなるとか、ドキドキしてくるとか、そんなことは何もありませんでした。副反応としては、当日の夜から接種した側の腕(しかも接種したところじゃなく臂に近い部分)が筋肉痛のように痛くなる、翌日は1日体がだるいくらいのことで、特に何もない、に近かったです。

3週間後、同じクリニックに2回目を打ってもらいに行きました。この時には「前回はどうでしたか?」と聞かれたあとに接種、やはり30分の待機を求められました。このクリニックでは「2回目の接種後、半数くらいの人が熱が出るので、解熱剤を渡すこともできますよ」と言ってくださいました。私は、かかりつけのドクター(隣の市のクリニック)が下さっていた薬(漢方の風邪薬)を持っていたので必要なかったのですが、本当に親切だなと思いました。この頃には薬局で解熱剤が手に入らない、との報道もあったからです。

この日も特に何事もなく家に帰ってきました。接種した部分が痛く、少し腫れて熱を持っていましたが、翌日には痛みは随分とマシになりました。このまま過ごせるかなと思っていたら、午後になって熱が上がってきました。腕も腫れています。夜寝るまで熱はありましたが(とはいえ、微熱程度)、薬を飲むと、うんと楽になりました。3日目には、すっかり平熱になり、最後まで残ったのは腕の腫れでした。それも翌日には治ってしまいました。

というわけで、大した副反応もなく、コロナのワクチン体験が終わりました。接種した人たちの話を聞いていると、本当にさまざまな副反応があるようです。うちの夫のように全く何もなかった人から、職場で倒れてしまった人の話まで、・・・。

高齢者の接種が進んでくると、やはりワクチンの効果が出ていることが分かってきました。ワクチン接種を望む人たち全員に、接種が進むといいなと思っています。また、世界中の人たちにも、希望する人にはできるだけ早く行き渡るといいなと思います。









2021年5月
ヒペリカム

最近、二宮敦人という小説家の本を読んでいます。初めてに手にしたのは『最後の医者は桜を見上げて君を想う』(TO文庫)というタイトルで、「衝撃と感動の医療小説!」というコピーに魅かれて読みました。続く『最後の医者は雨上がりの空に君を願う』(上下2巻:TO文庫)も涙しながら読んで、死ぬことについて、つまりは生きることについて深く考えました。お勧めです。

そして、今読んでいるのは『恋のヒペリカムでは悲しみが続かない』(上下2巻:TO文庫)です。先に読んだ小説がとても良かったので、同じ作者というだけで買ってみました。タイトルがおもしろいな、それにしてもこのヒペリカムって何なの?・・・と読み始めました。(ヒペリカムが何かをご存知の方には、何と言うことのない話です、悪しからず)

小説の中には、「クラブ ヒペリカム」という場所が出てきます。無料のホストクラブ、と噂される謎の洋館という設定です。とはいえ、これではヒペリカムって何だろ?という疑問の答えにはなりません。・・・まぁ、とりあえず読み進めてみよう。

そんなある日、家の近くのスーパーに行った時に、花売り場を見るともなく見ていました。すると、そこに「ヒペリカム」の文字!ーー!えっ?!これがヒペリカム? ヒペリカムって花の名前だったのぉ~~~! しかも、これって、オトギリソウやん!!

オトギリソウといえば、花屋さんなどで売っていますが、花ではなくて実がついているものですね。ピンクやオレンジ色の実がとてもかわいいです。それとヒペリカムが同じものだったなんて!

家に帰って調べてみると、ヒペリカムは小さな黄色い花が咲きます。梅の花みたいにオシベがたくさんあるところがとても可愛らしいです。へぇ~、と思って更に見てみると、花言葉が「悲しみは続かない」とあります。ヒペリカムは花が咲いてもその日のうちに散るのだそうで、でも、すぐに実をつけるところから、そういう花言葉になったとか・・・。そっかぁ、それが小説のタイトルになってたのね、と二度ビックリでした。

小説の方は、読み進めていくうちに、この花について主人公が語る場面が出てきました。「(この花が)私は好きなんです。」と言った後で「人生に悲しみがないとは言わない。存在は認めるわけですよ。その上で、しかし永遠に続く悲しみはない、というところがいい。」と。









2021年2月
野田先生の思い出

昨年12月に亡くなられた野田先生の思い出を、浮かんだ順につづります。

そう言えば、以前夫に「もし私が認知症になったら、野田先生に"認知症の妻とのつき合い方"を教えてもらいに行ってね」と頼んだことがありました。もうそれは出来なくなってしまいました。どこかで、野田先生は私より長生きする!って思ってたんですね、先生の方が年上なのに・・・。それでも、まさかこんなに早く先生とお別れすることになろうとは思いもしませんでした。

先生の訃報に接した時、古くからの楽笑会メンバーさんが「先生の思い出に浸りながら笑っていようと思う」と言ってくれました。私も先生を思い出しながら笑っていたいと思いました。


「配慮について」
まず、一番に思い出すのは、どこまでも行き届いた配慮のことです。

いつだったか忘れましたが、カウンセラー養成講座に見学に行った時のことです。お昼休みだったか終了後にだったか、参加者の方々とお茶を飲みに行きました。その時先生が「あ~、疲れたぁ~!」とおっしゃいました。うかつな私は「そんなに疲れるのですか?」と聞きました。すると、「そりゃあ、そうだよ。生徒たちがやったカウンセリングの後始末をしないといけないだろ」とおっしゃったのです。

カウンセラー養成講座では実習が始まると、生徒たちが順番にカウンセラー役をします。クライアント役も生徒たちの中から誰かが担当しますが、その時に出す話は本当に困っていることです。架空の話ではカウンセリングの実習にならないからです。生徒たちのカウンセリングは、当然のことながら、下手くそです。下手なだけならまだしもで、時にはクライアント役を傷つけたりするようなことも起こります。もちろん、そんなことは覚悟の上で、私は養成講座を受けていましたし、少々のことでは傷ついたりしないとも思っていました。

それでも、生徒がやったカウンセリングのあとを、必ず野田先生が引き取って、ある程度の解決に導いておられました。それも、とてもさりげなく、何か雑談の続きのような感じでクライアント役の生徒から話を聞き、自然な感じで勇気づけをされていました。

私なんかから見ると、とてもさりげない感じに見えましたが、それはすごく配慮しながらクライアント役の生徒を守っておられたのだと思います。

そのことを知ってからは、さまざまなワークショップや講座での野田先生の配慮について、少しは思いがいたるようになったような気がします。また、そんなふうなカウンセラーになりたい、ならないといけない、と思ったことでした。


「感情について」
アドラー心理学を学び始めた最初の頃です。私は自分の感情について考えていました。アドラー心理学では、感情は「ある目的があって作り出され使われる」と習います。そのことは頭では理解しているつもりでしたが、自分の感情(特に怒りやイライラ)は、どうしても自分で作っていると思えませんでした。

ある時、野田先生に聞いてみました。
「先生、怒りの感情ってね、なんか瞬間湯沸かし器のように、一瞬で沸いてくるような気がするんです。それでも、自分で作ってるんですか?」

そうしたら、「自分が作るんじゃないとしたら、いったい誰が作るの?」と逆に聞かれました。ポカンと頭を叩かれたような気がしました。自分が感情を作り出していると、本当に納得できた瞬間でした。


「感情のお仕事」
感情についての思い出をもうひとつ。

その頃まだ塾の仕事をしていた私は、ある生徒の言動に困っていました。その子の言い方や反応の仕方に、つい腹が立ってしまうのです。何かの雑談をしている時に、そのことについて野田先生に話しました。すると「そんな時、腹が立ってるよ、と相手に伝えたらどう?」と先生がおっしゃったのです。「えっ?どういうことですか?」と聞くと「そうすれば怒りのお仕事は終わるでしょ」と。

怒りのお仕事?ーーーーその時はよく分からなかったのですが、後日その生徒とまたもめた時、先生の言葉を思い出しました。いつもなら、マイナスの感情で言葉を返していたのですが、その時は「そんな風に言われると、腹が立つんだよね」と冷静に伝えることができました。すると、相手はかすかにうなずいて、その後何もなかったかのように、勉強に向かったのです。お蔭で私も怒って言葉を投げつけずに済みました。

これが怒りのお仕事、感情のお仕事ってことなのかぁ・・・。


「好奇心旺盛
新大阪にあったアドラーギルドは、床に絨毯が敷いてあって、研修室はごろごろするのにもってこいでした(笑)。居心地の良い場所でした。ある時私は2~3人の仲間たちと一緒に研修室でおしゃべりをしていました。少し離れたところに、野田先生がゴロゴロしてらっしゃいました。

研修室の向かいには事務室があって、双方の扉は開け放してありました。そこへ、お客さんがアドラーギルドを訪ねてこられました。すると、研修室に居た野田先生が、がばっと起き上がりました。「あの人、おもしろいボディーランゲージをするなぁ」とひと言おっしゃって、すたすたと事務室の方へ行かれてしまいました。

野田先生は、こんなふうに、いつも周りの人々をよく見ておられて、好奇心たっぷりに過ごしておられたのだと思います。私もそんなふうな目で見られていたのでしょうね、きっと・・・。


「素敵な生き方」
何かの講座の折、デモンストレーションで野田先生にカウンセリングをしてもらう機会がありました。その時、私は「きちんと規則や約束を守って暮らしていくのが好きな方です」というようなことを言いました。すると「それは素敵な生き方だね」と先生がおっしゃいました。

私は胸がいっぱいになりました。今まで、自分の生き方について、そんな風に思ったことがなかったのです。むしろ、自分の生き方は四角四面で、堅苦しくて、何の面白みもない、つまらない生き方だと、どこかで思っていました。

ですが、先生からこんなふうな言葉をかけられて、私は「そのままでいいんだよ」と自分が丸ごと肯定されたような気がしました。この時のことを思い出すと、今でも胸が熱くなります。


「テレパシー」
初めてシンポジストをした時の話です。野田先生をはじめ、ベテランのシンポジストが並ぶ中、私だけごく普通のオバサンとして、皆さんの前に座っていました。塾での経験を少し話してくれればいいと言われていたので、15分くらい話をして、あとはもう何も話さなくていいよね、とゆったり皆さんの話を聞いていました。(会場で聞いているのとまったく同じ感じでした)

話し合いが進んだころ、少し話してもいいな、と思うことが頭の中に浮かんできました。と、そのとたん野田先生が「北風さんはどうですか?」と話を振ってくださいました。わ~、すごい、先生ってテレパシーが使えるんだ!とびっくりしました。(今なら、分かります、それは心を読んだ(テレパシー)のではなくて、私のボディーランゲージを読んだってことを…)


「ニョッキ」
一度、野田先生がご自宅に私たち夫婦を招いて下さったことがあります。ご存知のように、野田先生は料理もお得意でした。さまざまな手料理をふるまってくださって、とても美味しくいただいたのですが、その中にニョッキがありました。

ホワイトソースの中に、お団子のようなものがいくつも入っています。口に入れてみると、もちもちっとした食感が美味しい!それにホワイトソースともよく合っています。「これは何ですか?」と聞くと、「ニョッキ」という答え。ニョッキを食べたのは初めてでした。

それ以降、うちの夕食にも時々ニョッキが出るようになりました。スパゲティよりも湯でる時間が少なくて済むし、何よりもちもちしているところが、私の好みです。ホワイトソースでもトマトソースでもミートソースでも、いけます。


「最後の研修会」
2019年9月兵庫県赤穂市で「秘訣講座~
パセージ・プラス」という研修会が2泊3日で行なわれました。この時野田先生も最初から最後まで参加して下さり、貴重なお話やアドバイスを沢山してくださいました。(「パセージ・プラス」は一般財団法人野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japanの商標です)

2日目の夜、夕食後に部屋ごとに何か出し物をしよう、ということになりました。歌を歌うチームあり、寸劇をするチームあり、クイズをするチームあり、・・・さすがアドレリアン達、やるとなったらやります! 突然の企画だったのにも関わらず、ひと工夫もふた工夫もした出し物が続きました。

野田先生も含めて20人余りの参加者たちは、みんな大笑いをし、はしゃぎまわり、とても盛り上がりました(誰一人お酒を飲んではいなかったのですけれどね)。もちろん、野田先生も、皆と一緒に大笑いをし、はしゃぎ、盛り上がって楽しんでおられました。

この2年ほど前にご病気になられて講座などからも遠ざかっておられたので、この時、本当にお元気なられて、以前のように私たちを指導してくださる姿、ましてや私たちと一緒に楽しんでおられる姿がとても嬉しく感じられました。

今から思えば、私にとってこの時が最後の野田先生の研修会となってしまいました。一緒に過ごせたことをありがたく、嬉しく思い出しています。