楽笑会 つれづれのページ

このページでは、日頃感じたことや気づいたことなどを
特にテーマを決めずに
書いていこうと思います。


  ようこそ
 楽 笑 会
 

つれづれ 2002年
もう大丈夫(?)感情について怒りのお仕事罪悪感の使いみち
沈黙の意味アドラー心理学の誤用距離をとる相も変わらず









12月
相も変わらず

最近(2002.12)のこと。うちの塾生(小6)とやり合ってしまいました。もう6年生にもなってるんだから、どうすればいいか分かって当然と思い、「どうすればいいか考えてごらん」と言うと、即「分かりません」と言う答え。「考えたらわかるでしょう!」(既に怒っている)「分かりません」

目をぱちぱちっとして、こちらを見つめています。その顔を見ると、余計むかむかしてきて「分からないワケないでしょう?考えなさいよ」「分かりません」……とっくに、権力闘争をしていると気づいているのですが、止められません。アホな私。

そのうち、そばで聞いていた別の生徒さんが、私の態度に対して「コワ~~~!」と声をあげてくれました。まだ、怒っていたのですが、突然自分の姿を鏡で見せられたように恥ずかしくなって、それで怒るのを止めることができました。すると、不思議なことに、やり合っていた生徒さんも「○○すればいい」と、どうすればいいかを言ってくれました。

なんだか、すごく恥ずかしくて、でもそれを素直に認めたくなくて、心の中では言い訳ばかりを考えていました。でも、声を上げてくれた生徒さんには、本当に感謝しています。もし、その声がなかったら、きっともっとすごいことになってたかも?と思います。(あぁ、恐ろしや!)

いまだにこんなことを繰り返しているのが情けないような気もしますが(確かに!)、でも、人間、失敗を繰り返すもんなんだと、ちょっと自分を慰めて(自分には甘いのです)、次こそは、とまた決心しなおしたことでした。その生徒さんに、すぐに謝れたらもっと良かったですけどね。(ちょっと暇がかかりました)












11月
距離をとる

うちの塾生に、どうも苦手な生徒さんがいます。(以前にもこんな生徒さんがいましたね。少しも成長していない私です)毎回毎回、彼が来るたびに、イライラし、怒りを使い、時には怒鳴り散らしたりして、そのあとひどい自己嫌悪に陥る、ということを繰り返していました。

これはどうにかしなければと、「かささぎ座」で相談をしました。心理ドラマをしながら提案された方法は意外なものでした。それは、自分の座る位置を変えるというものでした。今までは、彼と私との間には60cm弱の幅の机がひとつあるだけで、どうかすると私はその机にひじをつくくらいの距離で勉強をしていました。それを、その倍以上の距離をとってはどうかと言われました。

実際にドラマで試してみました。すると、不思議なことに、あれだけ「不適切」と思えた彼の行動、あんなにイライラした彼の行動が、それほどでもなくなってしまいました。「まぁ、ええか」と思えるのが我ながら不思議でした。

身体の感じをよく観察してみると、全体に力が入っていた以前と比べて、うんとリラックスしているし、ふわっと肩が下がっている感じです。胸が詰まった感じもないし、気持ちに余裕もあります。距離が近いと、身体だけではなくて心の方も何となく緊張していたんですね。

相手との距離が、自分の感情に大きく影響しているということを初めて知りました。それ以降は、なるべく距離をとって座り、それでもイライラしそうになったら、ちょっと席を立って、その辺りをうろうろすることにしました。たったこれだけのことで、イライラも少なくなり、怒鳴ることもなくなってしまいました。(今のところはね)クールダウンの方法をまたひとつ手に入れて、ちょっと嬉しく思っています。












9月
アドラー心理学の誤用

アドラー心理学を学び始めてしばらくすると、誤用の穴の中にすっぽりはまってしまうことがあります。私も、いまだに忘れられないエピソードがあります。

私の甥がまだ幼くて、ようやく話ができるようになった頃のことです。トランプを出して遊んでいた彼は、しばらくしてトランプを放り出したまま、別の部屋で遊び始めました。私は、トランプを片付けてほしいと思い、彼に声をかけます。

「ねぇ、このトランプどうするの?」「一緒に片付けない?」「上手に出して遊べたんだから、上手に片付けもできるよね」……等など。アドラー心理学で習った声掛けを、あれやこれや引っ張り出してきて、何とか片付けてもらおうとしました。ところが、彼は私の声には全く反応せずに、新しい遊びを続けました(ありがたやぁ~)。

その時私には、なぜ彼が動かないのかわかりませんでした。私には、最初から「自分で出したものは自分で片付けるべきだ」という思い込みがありました。また、「自分で出したものはきちんと片付けられる子どもになってほしい」という期待もありました。そして、「頼み方のこつ」などを習っていましたから、できるだけ丁寧に頼んだつもりでした。

でも、彼はそういう丁寧な言葉の裏にある私の下心(相手を自分の思い通りに動かしてやろうという下心)に、きっと気づいていたのでしょう。また、私が自分の課題を肩代わりさせようとしていたことにも、気づいていたのだと思います。だから動こうとしなかった。

今となっては、よくぞ抵抗してくれた、と思います。こうやって、NOを言われないと、なかなか自分の「誤用」に気づきません。私は「いいことをしている」「アドラーで習った通りにしている」と信じていましたから。でも、そんなやり方では、きっと抵抗を受ける、そういうところも、アドラー心理学のすごいところのひとつだと思います。












7月
沈黙の意味

私には、「相手が黙る=相手は怒っている」という思い込みがありました。なので、黙ってしまわれると、どうしていいかわからなくなり、だからといって、「どうして黙ったの?」と尋ねるなんて、怖くてとてもできないし、、、と頭は真っ白、身体は凍る(フリーズ)、、、という状態になることが多かったのでした。

さて、夫も当然、何かの拍子に黙ってしまうことがありました。私はやはり、「どうしよう」と思うばかりで、身体は動きません。動かないから動かないままにしていると、そのうち、夫の方から話しかけてきてくれて、何となく、普通の状態に戻っていました。それはそれで良かったのですが、なんにせよ、居心地が悪くてたまりません。何とかできないものかと、「かささぎ座」で相談しました。

サイコドラマを演じるうちに、夫の「沈黙の意味」に気づきました。それは、怒っているわけではなくて、クールダウンをしているのではないかということでした。黙ってしまう時、というのは、たいてい言い合いになったり、お互いにマイナスの感情があったりする時なんですね。そういう時には、そのまま言い合っていると、ますます感情的になって、怒鳴り合うようなことにもなりかねません。彼の方も、それを避けるために黙るのかもしれないな、ということに気づいたのでした。

そう思って、いくつかの場面を思い出してみると、確かに、その後、普通に話ができるのです。彼は黙ることでクールダウンをし、全然別の話題を振ることで、仲直りをしよう、というメッセージをくれていたのかもしれません。だとすれば、「沈黙」は(少なくとも「夫の沈黙」は)私にとって、怖いものではなく、ありがたいものなのですね。

意味づけが変わることで、私の次の行動も変わります。そんなところが、アドラー心理学のすごいところだなぁと思うのです。そして、私が大好きなところでもあります。












5月
罪悪感の使いみち

ある時、仕事で、普段より帰りが1時間ほど遅くなりました。自転車で帰宅している途中、私はとてもイライラしていることに気づきました。「遅くなってしまって、夫に悪いなぁ」と頭では思っているのですが、身体ははっきりと怒っています。私は怒ると胸の辺りに力が入って、のどが詰まるような感じになります。

この「怒り」は誰に向かっているのだろう。仕事が遅くなる原因を作った人でしょうか。いいえ、そうではありません。よぉく考えてみると、夫に向かっていたのです。ガ~~~~ン!!

「私が遅なったんは(遅くなったのは)、仕事なんやからね!」「私が悪いんとちゃうからね!(悪いのとは違うからね!」「私はこんなに悪いと思ってんねんからね!(思ってるんだからね!)」「怒らんとってよ!(怒らないでよ)」「怒ったらアカンよ!!」

夫がどう反応するかは全く分からないのに、怒るだろうと思い込み、その思い込みに反応して、勝手に怒っていたのでした。しかも、自分では「悪いなぁ」と罪悪感を持っているように感じているのです。これぞ、立派な「自己欺瞞」ですね。あぁ、恐ろしや!…………でも、このことに気づいたとたん、怒りはどこへやら。そりゃあ、そうですよね。もともとがずいぶん不合理な怒りだったのですから。

この日以来、罪悪感を感じたときには要注意。心して、それを使って人に怒りをぶつけないようにしています。一番だまされやすいのは、やっぱり自分ってことですよね。(トホホ)












4月
怒りのお仕事

今でも時々怒りを使ってしまうことがありますが(「ホンマに、時々か?」というツッコミには目をつぶって・・・)、何年か前は、もっと頻繁に怒りを使っていました。そのたびに、「まだまだ、アカンなぁ」と思い、それでもやっぱり止められない日々です。

ある時、野田先生も怒りを使うことがあるという話をされました。へぇ~、先生でも全く怒らなくなるわけではないんだ、と妙に嬉しくなった私は、「そういう時にはどうしてるんですか?」と質問をしました。そうしたら、「怒った時には、相手にその感情が伝われば、怒りのお仕事は終わりでしょう?」と答えてくださいました。

「へっ?!怒りのお仕事?」……う~ん、ようわからんなぁ。野田先生のお答えはいつもこんなふうに、私にはすぐにはわかりにくいものなのですが、しばらくそれをぶら下げて暮らしていると、あら~、そうだったのねぇというような出来事を体験します。

この時もそうでした。私の塾の生徒の中に、ちょっと苦手な生徒さんがいました。どうも、彼に対応していると、怒りを使いたくなるのです。そうして、マイナスの感情の悪循環の中へ入っていくということを繰り返していました。

ある日、その生徒さんに何か言われて、とても傷ついたような気がしました。その時、今までなら怒りの感情を使って、言い返していたのですが、「怒りのお仕事」の話を思い出しました。それで、一呼吸おいて、彼のそばにしゃがみこみ、静かな声で言いました、「あのね、あなたの気持ちはわかるけど、そんなふうに言われると、とても嫌な気持ちになるんよ」と。

そうすると、不思議なことに、彼は黙ってうなずいたのです。確かに私の言いたいことが伝わったという気がしました。そうして、彼も冷静なまま、私も冷静なまま、静かに勉強を再開することができたのです。そうかぁ、怒りの感情を伝えるのに、何も大きな声で怒鳴ったり、わめいたりしなくてもいいんだわ。そして、伝わったとわかれば、クールダウンできるのね、と実感できました。

「怒りのお仕事」というのは、つまりは「怒る目的」ということなのでしょうか。怒りは何かをさせたり、止めさせたりにも使うのですが、単に「怒っているよ」と言うことを伝えたいということもあるのかもしれません。












3月
感情について

アドラー心理学では、「感情を使う」という言い方をされます。勉強するまでは、感情(特に怒りなどマイナスの感情)は自分の意思とは関係なく勝手にどこかから、しかも瞬間湯沸器のように湧いてきて、自分ではどうすることもできないものだと思っていました。

ところが、「感情を使う」とか、「感情の目的」とか、「感情を作る」と言われ、最初はあまりよく分からないままに、ロールプレイなどで体験してみました。もし、子どもを怒っている最中に電話がかかってきたら、その電話にはとても冷静で機嫌よく答えることができるわけです。確かにねぇ。・・・ふ~ん、そういうことかぁ? なるほどねぇ。

でも、日常生活をしていると、どう考えても、どこか知らない所から、怒りが勝手に出てくるような気がしてなりません。とても自分が何かの目的のために作り出して使っているとは信じられないのです。

ある日、野田先生に「怒りの感情は、どこかから勝手に出てくるような気がするんですけど?」と聞いたら、「でもね、自分で感情を作らなくて、誰が作るのよ」と言われました。……私は、うっと詰まったまま、何も言い返せず黙ってしまったのでありました。

そうして、このことが、頭だけではなくて、身体で納得できるのに、私はいったい何年かかったでしょうか。5、6年どころではありません。もっともっとかかっています。何度も何度も、失敗を経験しました。「またやってしもたぁ」と思い、今度こそ!と思い、また失敗し、、、を繰り返していく中で、ようやく、わかったような気がしてきたこの頃です。

確かに、自分で作ってるなぁと感じることが時々あります。それでも、やめられない、イヤ、やめたくない時もあります。でもね、ちょっと上手になったなと思うのは、マイナスの感情を使ってしまったあとで、「ごめんね」って謝れるようになったということかなぁ? アドラー心理学を勉強すると怒らなくなる、という目論見はもろくも崩れてしまったけれど。(^_-)-☆












1月
もう大丈夫(?)

アドラー心理学を学び始めてしばらくたった頃のことです。テキストで習ったことの実践をぼちぼち続けていました。「適切な行動に正の注目」なんかを、がんばって(?)やっていました。きっと今よりも熱心だったはずです。(今の自分を、ちょっと反省)

塾の生徒さんがやってくると、「あぁ、来てくれたんだ」と思いながら「こんにちはっ!」(この「っ!」の部分がポイントです)と声をかけ、宿題を出したら「ちゃんとしてきてくれたなぁ」と思いながら、「じゃぁ、見ましょうねっ!」と声をかけ、ちょっとでもできているところがあれば、「ここもできるようになったねっ!」と声をかけ、……それはそれは、一生懸命でした。

ところが、ある時「人間はどんなふうにしても相手を支配することからは逃れられない」というようなことを教えてもらいました。あらら、そうだったの? 私はアドラー心理学を勉強することによって、人を支配しないで生きることができるもんだとばかり思っていたのでした。……だったら、どうしたらいいんだろう?

さて、そんな話を聞いた後では、「こんにちはっ!」と声をかけるのも、これは、目の前の生徒さんに、また機嫌よく通ってきてもらいたいために声をかけたんじゃないか、と思えてきます。「(宿題を)ちゃんとしてきてくれたなぁ」も同様に、次もきちんとしてきてもらいたいからなんだ、と思えます。「ここもできるようになったねっ!」も、もっともっとさせるために声をかけてるんだ。……そう思い始めると、何もできなくなってしまったのでした。例えば、視線一つ動かすのさえ、相手に何かを求めているような気がして、恐くてできなくなってしまいました。

その呪縛が解けたのは、「そういう勉強の仕方をしていると安全だ」と言ってもらえたからでした。充分に理解できていなくても、私の勉強していく方向性は間違っていないのだと思えたのでした。

今でも時々その頃のことを思い出します。そうして、いつしか「私は分かってるもんね」「私はできてるから、大丈夫」と思い始めている自分にハッと気づき、自分を諌めています。アドラー心理学の勉強は、「もう大丈夫」と思ったときが一番危ないんでしょうねぇ。(自戒を込めて)