楽笑会 つれづれのページ

このページでは、日頃感じたことや気づいたことなどを
特にテーマを決めずに
書いていこうと思います。


  ようこそ
 楽 笑 会
 

つれづれ 2001年

誕生前楽笑会誕生初期の頃同封のハガキ郵送係募集楽笑会の案内
切手について楽笑会の姉妹グループの力命令口調









12月
命令口調

「パセージ」
などを勉強していると、「目からウロコ体験」とか、「ガ~ン!な体験」を度々します。今でも忘れられない体験が、私にもあります。それは、初めてスマイル(「パセージ」→現在「えくと」)を受けた時の話です。(「パセージ」は一般財団法人野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japanの商標です。)

「命令口調とお願い口調」のところを習っていた時、私はリーダーに質問をしました。普段の生活の中では、お願い口調を使えるけれど、塾で生徒を教えている時に「教科書を開けてください」という命令口調を使わないで、「教科書を開けてくれませんか」とお願い口調で言うことはおかしい気がする、というようなことでした。

すると先輩メンバーさんの一人がすかさず、「そうかなぁ?私はそう言ってもいいと思うけど」とおっしゃったのでした。「えっ?!」「ウソッ!」と目が点になりました。だって、どう考えても生徒に向かって「~してくれませんか」はおかしいじゃないですか。(と、そのときはカタクカタク信じていました)

そうかなぁ、と思いましたが、先輩がそう言うし、リーダーさんもそう言うし(実際にどう言われたかは忘れてしまったのですが、先輩メンバーさんの言うことに賛成のようでした)、「変だなぁ、すごく変だなぁ」と思いましたが、とにかくやってみようと決心したことでした。

実際にやってみると、言い慣れない言葉なので私自身はギクシャクしましたが、生徒さんたちの方はあまり驚いた様子もありませんでした。

今では、全くおかしいと思わずに、お願い口調を使っていますし、何のためにお願い口調を使うのか、本当に大切なのは字づらではなくて感情の方なんだとわかってきていますが、この時の「ガ~ンな体験」は私の原点になっているような気がしてなりません。とりあえずやってみようという勇気をもらえたのも、リーダーさんや他のメンバーさんたちの勇気づけのおかげだと思っています。












11月
グループの力

楽笑会から得たものの一つにグループの力の大きさと素敵さをと知ったということがあります。
「パセージ」というグループ学習が勇気づけに満ちた雰囲気で進められるのと同様に、楽笑会も同じ雰囲気を持っていると思います。(「パセージ」は一般財団法人野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japanの商標です。)

リーダー養成(当時はスマイルリーダー)を受講してから、グループの進行係を少しずつ任せてもらえるようになりました。最初は、どうしていいかわからず、単なる井戸端会議で終わったこともありました。

それが皆さんの協力も得ながら、少しずつ次のような形に落ち着いていきました。まず、事例を出される方のお話を聞きます。ひと通り話を聞きますが、この時は、ご本人もどこが困っているのかよく分からないことが多いので、次にメンバーみんなで質問をしていきます。ここで活躍するのが「開いた質問」ですね。

質問の仕方は本当にそれぞれで、当然といえば当然のことなのですが、一人一人引っかかる所も違うし、どこが困っているかという推測もそれぞれ違います。また、不思議だと感じる箇所も違っていて、質問を聞いているだけでも、はっとすることがたくさんあります。

そうして、皆さんの質問に答えているうちに、本当に困っているのはどの部分か、どの部分を一番解決したいのか、どういうふうになったらいいと思っているのか、など事例を出してくださった方が気づいていかれます。

ここで質問が充分出ていれば、そこから先の代替案は比較的簡単に出てくるような気がします。皆さん思い思いの代替案を出されますが、一つ共通していることは、事例を出された方をどうにか勇気づけようという思いです。ですから、どんなに自分にとってはいいと思う代替案でも、ご本人がやりにくいと感じられるようなら、また別の案を考えていきます。

そんなふうにしているうちに、事例を出された方も、それを聞いていた方もそれぞれが何かしらお土産をもらって、来たときよりは少し元気になって、もちろん、私も元気をいただいて帰るわけです。これはグループで話をするからこそできることだと思っています。












10月
楽笑会の姉妹

楽笑会を始めて
4、5年たった頃、楽笑会のメンバーさんがご自分の地域でもグループを作り、その会に楽笑会の名前をつけてくださいました。

その後、98年には「徳島楽笑会」、00年には「楽笑会はままつ」、他に京都や神戸でも、楽笑会という名前のつく自助グループが生まれました。

徳島では、大阪の楽笑会に参加して雰囲気を知った3名の方が中心になり、グループを立ち上げました。それまで徳島には勉強会はあったものの、それはリーダー主導のものでした。ところが、徳島楽笑会は初めて徳島にできた自助グループでした。(現在、徳島では、『なかみちの会』として活動されています)

また、「楽笑会はままつ」は浜松で
「パセージ」を終えた後にできたグループの方が名前をつけたいとおっしゃってくださいました。

アドラー心理学は決して一人では学びつづけられるものではなく、どうしても仲間が必要です。自分の家の近くに仲間がほしい、
「パセージ」で一緒に学んだ仲間たちと勉強を続けていきたい、ちょっと相談にのってくれるところがほしい、雑談でもいいから話ができるところがほしい、、、。いろいろな動機でグループはできていきます。それぞれがそれぞれのニードに合わせて、いろんな形のグループになっていきます。(「パセージ」は一般財団法人野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japanの商標です。)

今、全国にはこういう自助グループが50近くもあると聞きます。(もっとあるかもしれません)01年8月には徳島で、「楽笑会まつり」という自助グループの交流会のようなものも開かれました。別の地域のグループの雰囲気を知ることもまた、お互いに刺激になってとても良かったと聞いています。












9月
切手について

楽笑会だよりを送る時に、個人的に楽しんでいることがあります。それは、切手です。昔から記念切手を買うのが好きでした。蒐集の趣味はありません。気づいた時に買っておき、友人へのたよりに使っていました。それが、楽笑会だよりを送付することになり、記念切手の発売日をチェックするようになりました。

80通を超える封書に、ひとつひとつ切手を貼ること(どうかすると10円切手と2枚貼ることもあります)は、ちょっと手間がかかります。郵便局へ持っていけば、「料金別払」などというスタンプで済ますことも可能です。

でも、私にとっては記念切手を買うこと、貼ることは、それだけで楽しいものでした。時には、地域限定発売の切手を貼ることもあります。また、旅行先で郵便局へ寄って、その地域でしか売っていない切手を買います。それもまた、楽しみの一つになりました。

個人的な趣味で始めたことでしたが、皆さんも結構楽しんでくださっているようです。楽笑会は、私の私利私欲で始めた会でした。そうして、ほとんど私の趣味でいろんなことをやってきました。それが、そのまま、皆さんにも喜んでもらえるというのは、妙といえば妙な感じです。でも、だからこそ続いてきたのかもしれないと、最近特に思うのです。












7月
楽笑会の案内

現在(2001年現在)、新入会の方に「楽笑会のご案内」という案内を差し上げています。楽笑会のちょっとした決まりごとを、知っておいてもらう方がいいかな?と思って、1991年7月からお渡ししてきました。最初に作ったものから少しずつ変わってきていますが、今は、こんな風です。

モットー:強制されない、自主的な、積極的で、自由な参加、運営。

成り立ち:1989年2月~3月にかけてアドラーギルドで行われたSMILE(現PASSAGE)及び基礎講座 (現応用編)の出席者(17名)に声をかけ「同窓会のようなものをしたい」というわけで、楽笑会ができました。1989年7月発足。

目的:アドラー心理学的な考えを日々実践していくための勇気づけあい。(PASSAGEのフォローアップ)

主な活動:
1.月1回、大阪のアドラーギルドに集まって話をする。(予約は不要)テーマは特になし。その時集まったメンバーから出た話を、アドラー心理学的に考えるとどうなるか、代替案はないかとみんなで考える。

2.この集まりの様子とメンバーのお便りをもとに、月1回「楽笑会だより」を発行する。

その他:
<会員(楽笑会だよりの希望者)の期間>
毎年7月から(または、新入会のときから)翌年6月まで

<入会の方法>
世話係の北風洋子にハガキを出す。または、PASSAGE終了後、リーダーにことづける。

<継続の方法>
毎年6月の継続の希望を尋ねる。返事のあった人のみ継続。(継続の機会を逸した人は、新会員と同じ方法で、いつでも再入会できる)

<会費>
2400円(1ヶ月200円)

<会費の使いみち>
楽笑会だよりの発行にともなう諸費用。

<その他>
・楽笑会だよりでは、皆さんの住所や電話番号をお知らせしていますが、載せてほしくない方は、その旨をご連絡ください。

・また、これらの住所や電話番号は会員の方同士が連絡を取り合えるようにお知らせしているものです。他の目的には使用なさいませんようお願いします。

・同封のハガキは、郵便局からではなく北風からハガキを購入していると考えていただき、ご自由にお使いください。(クイズの応募にでも、お友達への連絡にでも、どんなことにお使いいただいても構いません。もちろん、楽笑会だよりへの投稿にもお使いください)

・楽笑会への参加、楽笑会だよりへの寄稿は、全く自由です。

 
最初に掲げたモットー「強制されない、自主的な、積極的で、自由な参加、運営。」は、創刊号に寄せていただいたあるメンバーさんの言葉を頂きました。私はとても気に入っています。(この楽笑会の案内は2001年当時のものです)












6月
郵送係募集

発足当初、17名だった会員は、1年後には37名に、2年後には50名、3年後に61名、そして4年後には93名にまで増えました(1993年6月現在の会員数)。その後は、継続人数が60名前後、1年かけて80~100名前後まで増えていくということを繰り返しています。

会員数がはじめて100名を超えた1998年、それまでひとりでやっていたお世話を少し手伝ってもらいたいと思いました。楽笑会だよりを作ること自体は苦になりませんでしたが、送付の仕事は100に近づいてくると少ししんどいと感じるようになってきていました。そこで、30通くらいの送付をどなたかにお任せしようと思いました。「先着1名さまに!」と募集した所、すぐに手を挙げてくださるメンバーさんがいて、半年ほど手伝っていただきました。

その後、毎年、送付の仕事を手伝ってもらう方を募集しています。1年に1~3名の方が必ず立候補してくださいます。こちらから送った楽笑会だよりをコピーして封筒に入れて送ってもらっています。このことで私自身とても楽になりましたし、お手伝いしてくださっている方から、「楽しんでできた」等の感想を頂いています。

わがままな私は、誰かと相談して一緒にやっていくということが苦手です。それで、最初から何もかも一人でしていたわけですが、皆さんと協力し合いながらやっていくこともとても嬉しいことだと思えたのでした。それに、こういう面倒なことを誰かに手伝ってもらうことに(私が言い出したことだから)少し抵抗があったのですが、手伝うことが喜びになるということを教えていただいたことも、私にとっては新鮮なことでした。












5月
同封のハガキ

楽笑会だよりに、お便りを送っていただきやすくするために、少し工夫をしています。それは、「アンケート」というコーナーを作ることと、返信用のはがきを同封することです。「お便りくださ~い」といっても、何について書けばいいのかわからない場合のことを考えてのことでした。また、返事を書こうと思ったときに、手元にハガキや便箋がないと、億劫かもしれないとも思いました。また、ハガキぐらいの短い文章なら、お便りコーナーにも載せやすいと考えました。

このハガキについては、たくさんの方々からご意見を頂きました。「いつも返事を出せなくてごめんなさい」と謝ってくださる方が何人もおられました。どうやら、このハガキは出さなければならないものだと思われているようでした。それは、私の本意ではありませんでした。そのハガキの代金は、きちんと会費としてもらっています。ですから、そのハガキを何に使おうと、それはメンバーさんご自身の自由でした。

それで、入会していただいたメンバーさんには、「楽笑会の案内」で、“同封のハガキは郵便局からではなく北風から買っていると考えて、ご自由にお使いください。もちろん、楽笑会だよりへの投稿にもお使いください。”と、お知らせするようにしました。

そんな中、たまったハガキを、別のグループに寄付された方もいらっしゃいました。そのグループでは、例会の連絡をハガキでしてらっしゃったのですが、ハガキ代はお世話役の方が負担されていたのだそうです。また、懸賞の応募用に使ってくださったメンバーさんもいらっしゃいました。当選したこともあったとか聞いています。

1998年の12月に、返信用のハガキはいらないのではないか、というメンバーさんの意見が届きました。その分会費を安くするのはどうか、という提案です。それで、メンバーさんたちに紙上で問い掛けてみました。皆さん、とても真剣に考えてくださって、たくさんのご意見を下さいました。

意外なことに、ハガキが入っている方が嬉しい、というご意見がありました。どちらでもいいというご意見もありましたが、ハガキが入っていることでつながりを感じているというご意見を読んだときには、へぇ~っという驚きと同時に、嬉しくもありました。ハガキ一つでもいろんな捉え方があり、いろんな意見があり、そういうことを話し合える楽笑会だよりであることが、ちょっと自慢でもあります。












4月
初期の頃

最初の頃、楽笑会に出るたび、塾生のことや夫のことを相談していました。(リーダーの)さと子さんが、スマイル(
「パセージ」→現在「えくと」)のテキストに戻って、点検をしてくださいました。コース中不充分だった理解が進んだのも、楽笑会のおかげでした。1ヶ月に1回というペースで、アドラー心理学の雰囲気に触れることは、何にも代えがたく、また得がたい学習の場となりました。(今から振り返って思うことですが)(「パセージ」は一般財団法人野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japanの商標です。)

例えば、第10号(1990年3月号)に次のような私の意見が載っています。

3月5日の第8回楽笑会で話をした時、私は、「不合格の子どもはかわいそうだから、勇気づけてやらねばならない」というような意味のことを言って、“ちょっと引っかかる”と指摘されました。会の中では、あまりよく理解できてなかったのですが、帰ってじっくり考えてみると、「かわいそう」と思ったり、「勇気づけてやらねば」と思うことは、これは、私の思い上がりというか、上から見下ろしてる感じがしますよね。ちっとも対等じゃない。……と気づきました。勇気づけを必要としているかどうかなんて、相手に聞かないとわからないのに…。実際私の勇気づけなんて全く必要とせず、しっかり自分の力で立ち上がって、次の行動をし始めた生徒が目の前にいたのでした。

今読んでみると、こんなこともよく分かってなかったんだという思いと、今でも同じところで引っかかってたりするなぁという思いと、両方があります。ただ、こんな私が、何もわからないまま、グループのお世話をし続けてこられたのは、先輩方やリーダーさんたち、それから、メンバーになってくださった皆さんの協力があったからこそだと思っています。本当にたくさん相談にのっていただきました。

楽笑会だよりの方も、皆さんからのお便りは途切れることなく頂いています。今はもう、丸12年が経ちました(2001年7月現在)が、1通のお便りも来なかった月は、1度としてありません。それだけ、皆さんが楽笑会だよりを大切にしてくださっているんだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。












3月
楽笑会誕生

1989年4月、スマイル(
「パセージ」→現在「えくと」)と基礎講座のメンバーさん全員とリーダーさん(2人)にハガキを出しました。双方から17名の方が会員になるとお返事をくださいました。そうして、6月に「楽笑会だより」第1号を発行することとなります。記念の創刊号には、17名の方々からのお返事と、7月初めに第1回の例会をするので来てほしいというお知らせを載せました。(「パセージ」は一般財団法人野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japanの商標です。)

さて、7月には、9名の方が集まってくださいました。まず最初にしたことは、会に名前をつけることでした。いろいろ候補はありましたが、日本語がいい、カタカナではなく漢字がいい、そのうちフォローアップの会の代名詞になれるといい・・・、と私(北風)の全く個人的な趣味で「楽笑会」と決めました。(「楽」「勇」「遊」などの漢字が候補に上がっていました)「楽笑会」という名前は、「らくをしようかい」というふうにも読め、とても気に入りました。

1ヶ月に1回、アドラーギルドを会場に借りて例会を持つこと、その様子と皆さんからのおたよりを載せた会報を出すこと、会費として通信費をいただくこと、などを決めました。リーダーの高橋さと子さんには、全面的な協力をしていただくこととなりました。世話係は言い出しっぺの私(北風洋子)です。












2月
誕生前

1989年1月、私は親友に紹介されて、アドラーギルドへ電話をかけました。「『アドラー心理学』っていう“マイナーな心理学”やけどね、、、」と彼女は言いました。さっそくスマイル(
「パセージ」→現在「えくと」)と基礎講座(現基礎講座応用編)を申し込みました。高校時代に「心理学を勉強したい」と思っていたのが、十ウン年後にやっと実現したわけです。塾の講師という仕事の上でも何か役に立つかもしれないとも思いました。(「パセージ」は一般財団法人野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japanの商標です。)

スマイルでは、リーダーの高橋さと子さんや、2回目の受講、3回目の受講という先輩アドレリアンたちから、私は多くのことを学びました。いまだに思い出すこともあります。8章が終わったとき、この人たちと会えなくなるのはとても寂しいと思いました。本当にすてきな方々だったんですぅ。

当時、フォローアップの会はありませんでした。1ヶ月に1度ぐらい、同窓会のノリで集まることができたら楽しいかもしれない。文字を書くことは苦にならないから、「おたより」も出してみよう。同じコースを受けた仲間の一人とリーダーに相談して、会を立ち上げることに決めました。

「アドラー心理学を学び続けたい」というよりも、「みんなと別れてしまいたくない」という気持ちの方が強かったですね。全くの私利私欲でありました。